今年の立秋は8月8日でした。
その頃朝早く水田の近くを歩いていたら、稲の良い香りがしました。
稲の出穂です。
豊かな秋の実りを思い幸せな気持ちになりました。
この「立秋」は二十四節気の言葉です。
二十四節気とは、一年の季節の循環を二十四等分したものです。
有名な所では立春、春分、夏至、などありますが、二十四節気の話をする前に、まず旧暦の話をしましょう。
昔の暦は月の満ち欠けを全体の基準とする太陰暦を基本としますが、太陽の動きも参考にして作った「太陰太陽暦」でした。
月の満ち欠けは、約29.53日周期なので、旧暦は三十日を一月(ひとつき)とする大の月を六回と、二十九日を一月(ひとつき)とする小の月を六回、締めて合計十二ケ月、354日を一年としていました。
しかし、実際に一年の経過が実感されるのは、季節が再び巡ってくることによります。
これは小学校に時に習った通りに、四季の一単位は地球の公転に要する時間そのものなのです。
日数にして365.2422日になるわけです。
旧暦の一年の日数は公転日数と十一日分あまり差が生じます。
そのままにすれば暦と季節の運行は離れる一方なので、五年に二度程の閏月(うるうづき)を設けて時間の分量の調節をはかりました。
かくして昔は五年に二度程、一年が十三月というばかに長い年がありました。
古今集に高名な女流歌人「伊勢」の歌に
やよひ(弥生)にうるふつき(閏月)ありける年よめみける
という詞書 ※(ことばがき)が付いている歌があります。
この年は、弥生(やよい)三月の次に、閏(うるう)三月が加えられたのです。
桜花 春加ははれるとしだにも 人の心にあかれやはせぬ
(さくらばな はるくははれるとしだにも ひとのこころにあかれやはせぬ)
桜花よ、春が一ヶ月加わった今年だけでもせめて、人の心に満足だと思われるほど咲いていて欲しい
暦は人々の生活の基盤に無くてはならないものでしたが、季節の運行という自然の体系とは一致しないため、日付と時候を対応させることができませんでした。
たとえば旧暦で同じ日を比べると、次の年は約十一日早まってきます。三年たつ間には季節的に訳一月(ひとつき)分のずれになってしまいます。
(※「詞書」とは、和歌や俳句の前書きのこと)
二十四節気
このように暦と季節の歩調が合っていなかった時代には、季節を共通に理解するための標(しるし)が必要とされました。
その標となったのが二十四節気です。
二十四節気は中国で考案された方法で、季節の一巡を一つの体系として、それを二十四等分したものです。
従って、二十四節気の一周り分の日数は、一太陽年の日数(公転に要する日数)に等しいです。
二十四分割する方法は、最も昼の長い日を「夏至」、最も昼の短い日を「冬至」、昼と夜の長さが同じ日を「春分」・「秋分」とし、それぞれを春夏秋冬の中心に据えることで季節を決めた暦です。
また季節のはじめを作りました。
「立春」……春の始まり。冬至と春分の中間。
「立夏」……夏の始まり。春分と夏至の中間。
「立秋」……秋の始まり。夏至と秋分の中間。
「立冬」……冬の始まり。秋分と当時の中間
こうして四季を決定していったわけです。
さて、現行暦との比較でみていきますと、立春は今日の暦で見ると2月4日ころに当たります。立夏は6月6日前後、立秋は8月8日から10日ころ、立冬は11月7日から9日頃になります。
実際の気候と比べると、時期がかなり早いと感じられます。
これは、日本よりおよそ一ケ月季節が早く来る中国の華北の気候に合わせて作られた方法を、輸入してそのまま用いてきたからです。
このことは、日本人の自然に関する感性を醸成し、四季に対する感性を磨いたと私は考えます。
昔の人は二十四節気の季節の区分を絶対に正しいものだといました。
実際の気候がまだ現れてこないうちに、区分上は、春、夏、秋、冬が訪れているのです。
いきおい人は身辺に先の季節の兆候を探すように熱を入れるようになります。
そこに日本独特な繊細な季節感覚が培われることになったのです。
私も稲の初穂を見たときは、道端の草むらですだく虫の音に耳を澄まし、空を見て流れるようなイワシ雲を探し、秋の気配を感じ取ろうとしました。
古今集にある藤原敏行の歌
秋立つ日、よめる
秋きぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる
秋が来たと目にははっきりと見えないけれども、風の音にはっと気づいた
(和)