猿羽根峠(さばねとうげ)

ハアー(ハッ キッタサ)
あの山高くて
新庄が見えぬ(ハッ キッタサ)
新庄恋しいや
山憎や(ハッ キッタサ)  ※お囃子は以下同じ

ハアー
猿羽根山(さばねやま)越え
舟形越えて
逢いに来たぞや
万場町へ

山形県の新庄市で好んで歌われる【新庄節】です。

新庄で働いたことがあるなどの縁のある人も好んでいる。

私も若い日のひと夏を前に勤めていた会社の新庄営業所でセールスを手伝ったことがあるので愛着があります。
以前は酒を飲んだ時に歌ったものです。

猿羽根山を越える猿羽根峠は羽州街道の道中でも難所として知られています。

尾花沢から新庄に至る主要な峠でしたが、冬場は通行できなくなり、新庄は陸の孤島だったそうです。
その状態は昭和36年にトンネルができるまで続きました。

この峠は、古来よりたくさんの人々が行き交いました。

松尾芭蕉、斎藤茂吉、イザベラ・バード、清河八郎、明治天皇なども猿羽根峠を越え、多くの言葉を残しています。

昨年11月にイギリス人の大旅行家イザベラ・バードの足跡を辿ろうとする街歩きの会があり出席しました。

イザベラ・バードが山形県に足を踏み入れたのは明治11年7月です。
小国の方から入り、米沢街道、羽刕街道を通って秋田県に抜けています。

上山からは羽州街道が通っています。

羽州街道は、奥羽街道を福島の桑折で別れ、宮城県の七ヶ宿を通り山形の上山に出ます。

それからはほぼ今の国道13号線と同じルートで、山形、新庄、秋田を経て、青森の油川宿で奥州街道に合流します。

イザベラ・バードは猿羽根峠のあたりの旅行記の記述は

“尾花沢を過ぎると、最上川の支流の一つによって灌漑されている河谷を通り、それに架かる美しい木橋を渡ったのち峠道を登っていった。
峠からの眺めは絶景だった。
峠道は、松や杉や小楢が生えているふんわりとした泥炭質の土壌からなる地域を抜けて上っていったあと、長い下り道は立派な並木道をなして新庄に至った。” (「日本奥地紀行」 金坂清則 訳)

今回、私が廻ったのは天童市、村山市、尾花沢市、舟形町のコースです。

私のもっぱらの目的は猿羽根峠を歩くことでした。

数年前に、車で峠の頂上まで行ったことはありますが、芭蕉も、茂吉も歩いた山道を登りたいものだと思っていたので、好機到来と友人を誘って参加した訳です。

斎藤茂吉は、大石田に疎開して来て一年過ぎても猿羽根峠は登ったことがありませんでした。

尾花沢は大石田から歩いて行けるぐらい近い隣町でしたので、何とか登りたいと思っていました

もみぢ葉の すがれに向ふ 頃ほひに さばね越えむと おもふ楽しさ

茂吉が大石田に移住してきた年の昭和21年に、二年間世話になった二藤部兵右衛門方の離れで詠んだものです。

ちなみにこの離れを茂吉は聴禽書屋(ちょうきんしょおく)と名付けていました。

この翌年の昭和22年5月、猿羽根峠越えが実現します。

茂吉の愛弟子で、大石田に茂吉を招きお世話をした、大石田生まれでアララギ派歌人 板垣家子夫(いたがき かねお)さんがトラックに載せて案内しました。

茂吉の日記には次のようにあります。

午前6時ニ起キ、板垣ノ処ニテ朝食シ、薪ハコビノトラックニ乗り、葦沢ヲ経、名木沢ニ行キ、猿羽根山ノ入口マデ行キ、アトハ徒歩ニテ峠ヲ上った、チョウジョウノ地蔵堂に着イタノハ十時デアッタ。”

この “もみじ葉” の歌は、猿羽根山表参道の石段左側に歌碑となっています。二藤部兵右衛門方の離れでの歌会(聴禽書屋歌会)で詠んだ時の茂吉の書いた紙を板垣さんが保存していたので、茂吉自筆の書の歌碑ができました。

その登っているときの情景は、板垣さんが書いた文章から引くのも味わいがありますが、茂吉の歌を挙げましょう。

最高の傑作と言われる歌集「白き山」に “猿羽根峠” として17首あります。

印象深いものを挙げます。

名木澤を 入口として のぼるとき ちかく飛びつつ 啼くほととぎす

谷うつぎ むらがり咲きて山越ゆる われに見しむと 言へるに似たり

こほしかる 道とおもひて居りたりし さばねの山を けふ越えむとす

猿羽根峠 のぼりきはめしひと時を 汗はながれて いにしへ思ほゆ

おのづから 北へむかはむ最上川 大きくうねる わが眼下(めのした)に

元禄の ときの山道(やまぢ)も 最上川 ここに見さけて おどろきけむか

雪しろき 月読の山 横たふを あなうつくしと 互(かたみ)に言ひつ

とうげには いづる水あり 既にして 微かなれども 分水界をなす

この連作も参道の下の広場に歌碑となっています。ただし活字の歌碑です。

山道は明治に作られた道ですが、きれいな道でした。

イザベラ・バードはこの道ができてから登っています。

しかし芭蕉が通ったであろう古道は所々に道の痕跡はありましたが、草深くて入られませんでした。

舟形町から頂上の近くまでは車道が通っています。

頂上のパーキングのところに歴史民俗資料館があり、国宝『縄文の女神』が展示してあります。均整のとれた八頭身の美しい容貌の立像土偶です。

また、峠の上には地蔵尊が祭られています。

新庄藩と尾花沢の境界ですので、悪霊を防ぐ意味があったのでしょう。

地蔵堂の下には「新庄領」と刻まれ碑が立っています。

また、一里塚もあり、やはり古来より使われた街道であると納得させられます。鳥海山、最上川の眺めも素晴らしい。

昔から神事に使われていたのでしょうか、相撲の土俵もあります。

忘れてはならないのは尾花沢出身の力士「琴の若」

今は親方「佐渡ヶ嶽」となり後進の指導に当たっています。

ここまで読んでくれた方には、ぜひ猿羽根峠を散策されることをお勧めします。